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デザインについて

デザインについては20代の最初に就職した企画会社で仕事をするうちにたたき込まれたように思う。

学校で学んだことはあまり役に立たなかったが、仕事をして実際にクライアントとのやり取りの中の方が色々と学ぶことが多かった。

その頃、夏目漱石の小説を読んで自分のデザインの信条のような物を得て、以来それを基本にしている。

久しぶりに当時に書いた手帳のメモを読んだのでそのまま書いておこうと思う。

デザインの本質とは

今まではデザインとは生み出す物と考えてきたが、ここにきてデザインとは掘り出す物と解ってきた。そもそもグラフィックにしても立体にしてもデザインという物はある取り決めがあり、その枠の中で最大限にそれに合う物(形・質・量・色など)を掘り出す作業こそデザイナーのなすべき事であり、それでこそ道理にあったデザインがなされると思う。

それは既に元からそこにあるべくしてある物で、それらを無視した物は所詮、我見の物のように思われる。

経験のないうちは、何でも自分の数少ない得意な土俵に持ち込もうとするがこれは間違いである。

案件ごとにある要素をクライアントとの打ち合わせや分析から、謙虚に見てゆきそこから掘り出すことが大事である。

そこには自分の我見が入る余地などはない。

ミケランジェロの曰く「私は大理石の中から像を見つけ出し、余分な部分を取り除いているだけだ」というものがこれである。

巨匠ですら素材に対し謙虚なまなざしを向け献身的な仕事をしているのにましてや我らの仕事をや。

また、夏目漱石の夢十夜という作品の中、第6夜に

運慶(うんけい)が護国寺(ごこくじ)の山門で仁王(におう)を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評(げばひょう)をやっていた。

山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜(なな)めに山門の甍(いらか)を隠して、遠い青空まで伸(の)びている。松の緑と朱塗(しゅぬり)の門が互いに照(うつ)り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障(めざわり)にならないように、斜(はす)に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出(つきだ)しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。

ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その中(うち)でも車夫が一番多い。辻待(つじまち)をして退屈だから立っているに相違ない。

「大きなもんだなあ」と云っている。

「人間を拵(こしら)えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも云っている。

そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫(ほ)るのかね。へえそうかね。私(わっし)ゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」と云った男がある。

「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊(やまとだけのみこと)よりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻を端折(はしょ)って、帽子を被(かぶ)らずにいた。よほど無教育な男と見える。

運慶は見物人の評判には委細頓着(とんじゃく)なく鑿(のみ)と槌(つち)を動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所に乗って、仁王の顔の辺(あたり)をしきりに彫(ほ)り抜(ぬ)いて行く。

運慶は頭に小さい烏帽子(えぼし)のようなものを乗せて、素袍(すおう)だか何だかわからない大きな袖(そで)を背中(せなか)で括(くく)っている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。

しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。仰向(あおむ)いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、

「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我(わ)れとあるのみと云う態度だ。天晴(あっぱ)れだ」と云って賞(ほ)め出した。

自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、

「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在(だいじざい)の妙境に達している」と云った。

運慶は今太い眉(まゆ)を一寸(いっすん)の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪(たて)に返すや否や斜(は)すに、上から槌を打(う)ち下(おろ)した。堅い木を一(ひ)と刻(きざ)みに削(けず)って、厚い木屑(きくず)が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開(ぴら)いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀(とう)の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾(さしはさ)んでおらんように見えた。

「よくああ無造作(むぞうさ)に鑿を使って、思うような眉(まみえ)や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言(ひとりごと)のように言った。するとさっきの若い男が、

「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。

自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫(ほ)ってみたくなったから見物をやめてさっそく家(うち)へ帰った。

道具箱から鑿(のみ)と金槌(かなづち)を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風(あらし)で倒れた樫(かし)を、薪(まき)にするつもりで、木挽(こびき)に挽(ひ)かせた手頃な奴(やつ)が、たくさん積んであった。

自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫(ほ)り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片(かた)っ端(ぱし)から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵(かく)しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った。それで運慶が今日(きょう)まで生きている理由もほぼ解った。

とある通り、素材の中から彫りすぎず、掘り残さず、綺麗に「物そのもの」を現すことこそ我々の使命なのではないかと思う。

改めて見直してみると当時からあまり進歩していないなぁと反省するこの頃である。

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