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デジタルと紙

最近このブログをはじめとしてメモはキーボードで打ち込むようにしているが、心の隅の方ではまだまだデジタルに対しての疑念がある。

ようするに、全幅の信頼を置けないのである。

誰もが経験があると思うが、デジタルデータは故意や不注意に関わりなく、いったん消去してしまえばみごとなまでに跡形もなく無慈悲に消し去ってくれる。

これは、ちょっとテストでアプリを起動して、試しに作ってみた物でも、数時間、いや、数日かけて作業した成果品でもまったく平等に容赦がない。

そこには意図的に消去する場合もあるし、アプリなどの不具合により理不尽に消し去られる場合もある。

そして、いったん消えてしまったコンテンツはほとんどの場合戻ってこない。

MacOSが今よりもっと不安定だった頃、半日かけて行った作業をいとも簡単に消し去られた記憶があり、それ以来仕事で使うPC環境に対してはかなりシビアになったと思う。

アプリやOSのメジャーアップデートにしても、人の評価はあまり鵜呑みにせずに、さまざまな情報をから総合的に判断し、まず試験的に導入してから徐々に本格運用してゆくようにしている。

とにかく信頼性と安定性に重点を置いて、どちらかというと「枯れた技術」を好んで使う。

話がずれたが、デジタルは信頼性においては遙か昔のパピルスの時代から現代まで積み上げられた「紙」には遠く及ばない。

それはデジタルデータ自体に書き込まれる生地となるメディアそのものの危うさを起因とするのであろう。

書き込み、書きだし、コピーが容易な分だけ、消去の容易さもまた、つきまとう。

紙ならば数百年、数千年の安定した保存の信頼性が現存として明かされている。

以前にNiftyのシステムに侵入してそのアクセスログを消去して、形跡を消そうと試みた者がいたが、その犯行はすぐさまバレてしまった。

彼は凄腕のハッカーで、アクセスログからは綺麗サッパリ足跡を消し去っていたのだが、それでも発覚してしまった。

なぜなら、Niftyでは一定時間を過ぎたログはすべてプリントアウトして保管していたからだった。

いくら凄腕のハッカーと言えども、紙に記録された足跡までは消し去ることは出来なかったのである。

たいがいの読み物は電子形式で済ませている私でも、これはと思う物は書籍などの紙の形で入手している。

デジタルデータ自体は電気の供給がないと閲覧が出来ないという欠点があるからだ。

逆に雑誌程度で得られる情報なら、ネットを徘徊していれば知ることが出来る。

テレビもないし、新聞も取っていないが、ネットがあればその手の情報で不足を感じたことはない。

それで漏れる情報もあるだろうが、この情報の氾濫の時代、その漏れた情報が重要だと誰が判断できるであろうか?

たいがいは、広告等が絡んだ何らかの意図が見え見えの情報が多いように思える。

これも、情報のコピーが容易なデジタルの弊害の一つといえよう。

不確かな情報がそれこそ雨後の竹の子のように蔓延しているのが現代のように見える。

紙の話に戻るとブログのデータも、紙に出力して保存を確実な物としておく必要が時期がそのうち来るかもしれない。

ただし、コピー用紙にただプリントアウトしただけではあまりにも味気ない。

もしかしたら既にあるかもしれないが、ある程度まとまったブログを製本の形にして1~3冊くらいでもオーダーできるサービスがあればいいともう。

既にiPhotoからは個人の写真集の小ロット出版サービスがあるくらいだから、ブログもそろそろあるのではないか?

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