最近、過去のアルバムをスキャナで通してデジタル化の作業をしている。
そこで、幼稚園のアルバムを見ているうちにそのころの記憶がよみがえってきた。
私の通う幼稚園は商業地のド真ん中にあり、自宅からも遠かった。
そこで行き帰りは車で送り迎えしてもらっていた。
幼稚園帰りに親の買い物につれられて付近の商店街やデパートを歩くのがとても好きだった。
遠くから来ているせいか自宅の付近には幼稚園の友達はおらず、幼稚園以外で会って遊ぶことはなかった。
幼稚園では特に仲の良い女の子が二人いて、よく遊んでいた。
クレヨンによる絵と油粘土の粘土細工が得意で、それらの作品を作っているときは本当にモテた。
先生に怒られて、塞いでいるときも、絵を描いていれば、友達が「SKY(仮名)ちゃんはこういう絵を描くんだから許してあげて」と、とても脈絡のないことだが、先生に嘆願してくれた。
まったく芸は身を助くであった。
粘土細工は一人、少しの量しか与えられず、それでは大作が出来なかった。
そんなときはみんなの粘土を少しづつ持ち寄ってもらってそれで大きな作品を完成させることが出来た。
そのため、1枚の粘土板では間に合わず2枚使用していた。
粘土細工の時間が終わったら各自のロッカーに作品をしまうのだが、私のだけは大きすぎて入りきらず外にさらされた状態のままいた。
大雪が積もったある日、幼稚園のバルコニーで雪だるまを作ることになった。
みんなは普通に雪を転がして雪だるまを作り始めていたが、私のその時のマイブームが「ピノキオ」でその雪像を作りたいとの野望を持った。
そこで普通の丸い雪だるまではなく、なんと2本足の足の部分から作り始めた。
しかし、雪は思いの外冷たく、すぐに手がかじかんで、2本の棒を作った時点で時間切れとなってしまった。
友人達のダルマを尻目に私の2本の棒だけがむなしく立っていた。
構想と理想は高いのだがなかなか時間内に仕上がらないというクセはこの頃からあったようだ。
特に仲の良い二人の女の子の紹介で、一人の男の子とも友達になった。
しかしこの子はパッとしない子で、お遊戯などでも鈍くさかったのでしょっちゅうダメ出しを出していた。
そんなときは決まって二人の女の子はその子をかばって私が悪者になってしまった。
子供ながらに理不尽な気がした憶えがある。
結局、二人の女の子の人気をその鈍くさい子と私の間で行ったり来たりしている感じだった。
何故そんな鈍くさい子がモテたのかは解らない。彼に母性本能をくすぐる何かがあったのかもしれないし、ただ単に二人の女の子のうちが近所で仲良くしてただけかも解らず、今となっては調べようもない。
ある日、「幼稚園にテレビのお兄さんがキターー!!」と友人達が興奮気味に話していた。
「おぉ!ついにうちの幼稚園にもピンポンパンが来たのか!!」と私も期待に胸をふくらませていた。
その当時の私の見ていた番組はなんていっても「ピンポンパン」だろう。
毎日「ピンポンパン」を見ながら、いつかは自分の番が回ってきてあの「ピンポンパン」に出られて、最後にあの木の根っこから好きなおもちゃをもらえるんだ。と信じて疑わず、その日を一日千秋の思いで待ちこがれていた。
それだけに、テレビのお兄さんが来る = 自分のピンポンパンへの出演出番が回ってきた。と考えていたのだろう。
ところが、幼稚園に来たソレは「ピンポンパン」のお兄さんではなかった。
友人達は知っている人らしく「XXXのお兄さんだ!!」とかなりヒート気味であるが、わたしは「ピンポンパン」以外はまったくその手の番組を見ていなかったため、みんなの興奮とは裏腹に、一人冷めていた。
どうせ呼ぶなら、「カータン」とか「新兵ちゃん」とか「お姉さん」とかはたまた仮面ライダー1号の「藤岡弘」とか、そのあたりの知っている人にしてくれればいいのにと園長を恨めしく思った記憶がある。
ちなみに、園長室にも忍び込んだことがある。
園内のたいがいの場所は見て歩いたのだが、園長室だけはいまだ謎であった。
園長が出入りするときにその隙間からチラッと中が見えることもあり、気になって仕方がなかった。
気になり出すともうその事だけで頭がいっぱいになり、お遊戯の時間を抜け出して、園長室に忍び込んだ。
ところが折り悪く園長が居たためすぐに見つかってしまった。
あとで幼稚園から親にも注意が行ったらしく、だいぶ怒られた。
しかし、肝心の園長室の中がどういう物だったかは記憶にないのであまり子供心をくすぐるような物がなかったのだと思う。
一度見学させてもらって好奇心が満たされればすぐに興味が無くなるものだったのに・・・。
同じ理由で帰りに買い物に連れて行ってもらう時に何か心の琴線に触れるようなものがあれば、いてもたってもいられないず、もうまっしぐらである。
そのため、しょっちゅう親元から離れて迷子になった。
迷子になると決まって近くにいる人の中から人相の優しそうなお姉さん(必ずお姉さん)にお願いして母親を捜してもらっていた。
探してもらうだけでなく、足が疲れたと言っておんぶもねだった。
優しいお姉さんなので、おぶってくれてその足で私の母親探しをしてくれた。
その背中から「そっちじゃない、たぶんこっちだとおもう」とかダメ出しを出していたのだから、いまらか思えばとんでもないガキだった。
そんなふざけた園児の私にもやがて天罰が下ることになった。
幼稚園では幼稚園の授業の他に放課後に英語教室をオプションで開いていた。
そこで、私は英会話を習いたい旨のことを親に話したが、父親の一存で、近くの剣道の道場に通わされることになった。
そこがまたとても礼儀作法に厳しいところで、私のようなふざけたガキには容赦なく平手が飛んできた。
周りが騒いでいると全員、その日は稽古付けてもらえず、1時間ずっと板の間で正座ということもあった。
最近で言えば「戸塚ヨットスクール」であろうか、そこは軍隊並みにかなり厳しいところだった。
もともと自分の希望する物ではなかったため、当初から消極的で結局それから10年くらい通わされたがちっとも強くならなかった。
ただ、身体だけは鍛えられたのでこれといった病気もせずに、現在に至るまで、入院した経験はない。
そういう意味では感謝している。
ただ、逆に普通の遊びをすることが無く、当時の流行の野球などの球技はまったく不得意になった。
なによりも、剣道はスタンドプレイなので、そのせいで今でもチームプレイが不得意になったように思う。
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