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礼は誠に虚器に非(あら)ざるなり

今日から3月。
以前のエントリーにも書いたが、私は1年を2つに割って2年分過ごすことにしているので、一年の1/3が過ぎたことになる。
早いものである。
3月と言えば卒業の季節。
これには私自身には苦い思い出がある。

高校時代、この時期は受験で忙しく、大学の二次、三次の実技試験の対応に追われて、ついつい卒業式を欠席してしまった。
たぶん、出席しようと思えば出来たと思うのだが、自分自身の高校があまり好きでなかったこともあり、やっと解放されるという安堵感からか、軽く考えていたのだと思う。
しかし、これは大きな間違いであった。

現在も時々、高校の夢を見る。
決まって単位が危なくて今年は卒業できるかどうか、心配している夢だ。
それが当時の夢ならばいいのだが、この年になってまだ卒業を心配している夢なのだ。
もちろん、実際にはちゃんと単位も取って書面上では卒業したことになっている。探せば卒業証書だって出てくるだろう。
しかし、魂の上ではちゃんと卒業がなされていないらしい。
それで、教科書が見つからなかったり、体育着を忘れていたり、色々と悩ましい夢を見る。
ちゃんと式に出なかったと言うことで魂にケジメがつかずに、なにやら呪われ続けている印象である。

戦中の混乱期で卒業式に出席できなかったとか、マラソンでゴールを切れなかったなどを数十年ぶりに実現したというニュースをよく耳にするが、その気持ちが痛いほど解る気がする。
もしかしたら、その人達も夜な夜な自分のケジメのつかない魂の行き所に債悩まされていたのではないかとも想像する。
だから、もし、自分に子供ができて、入学式・卒業式等の行事に対して意味を見いだせず、不参加の意志を示すときは、あえてこの事だけはしっかり伝えられると思う。

「礼は誠に虚器に非(あら)ざるなり」とは、明治の軍人、谷千城(たにたてき)がその手記「隈山詒謀略」に書いた言葉で、こういった儀式事は何でもそれなりの意味があり、無駄ではないという意味である。

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