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2006年02月17日

●幼稚園のおもひで

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最近、過去のアルバムをスキャナで通してデジタル化の作業をしている。
そこで、幼稚園のアルバムを見ているうちにそのころの記憶がよみがえってきた。

私の通う幼稚園は商業地のド真ん中にあり、自宅からも遠かった。
そこで行き帰りは車で送り迎えしてもらっていた。
幼稚園帰りに親の買い物につれられて付近の商店街やデパートを歩くのがとても好きだった。

遠くから来ているせいか自宅の付近には幼稚園の友達はおらず、幼稚園以外で会って遊ぶことはなかった。
幼稚園では特に仲の良い女の子が二人いて、よく遊んでいた。
クレヨンによる絵と油粘土の粘土細工が得意で、それらの作品を作っているときは本当にモテた。
先生に怒られて、塞いでいるときも、絵を描いていれば、友達が「SKY(仮名)ちゃんはこういう絵を描くんだから許してあげて」と、とても脈絡のないことだが、先生に嘆願してくれた。
まったく芸は身を助くであった。
粘土細工は一人、少しの量しか与えられず、それでは大作が出来なかった。
そんなときはみんなの粘土を少しづつ持ち寄ってもらってそれで大きな作品を完成させることが出来た。
そのため、1枚の粘土板では間に合わず2枚使用していた。
粘土細工の時間が終わったら各自のロッカーに作品をしまうのだが、私のだけは大きすぎて入りきらず外にさらされた状態のままいた。

大雪が積もったある日、幼稚園のバルコニーで雪だるまを作ることになった。
みんなは普通に雪を転がして雪だるまを作り始めていたが、私のその時のマイブームが「ピノキオ」でその雪像を作りたいとの野望を持った。
そこで普通の丸い雪だるまではなく、なんと2本足の足の部分から作り始めた。
しかし、雪は思いの外冷たく、すぐに手がかじかんで、2本の棒を作った時点で時間切れとなってしまった。
友人達のダルマを尻目に私の2本の棒だけがむなしく立っていた。
構想と理想は高いのだがなかなか時間内に仕上がらないというクセはこの頃からあったようだ。

特に仲の良い二人の女の子の紹介で、一人の男の子とも友達になった。
しかしこの子はパッとしない子で、お遊戯などでも鈍くさかったのでしょっちゅうダメ出しを出していた。
そんなときは決まって二人の女の子はその子をかばって私が悪者になってしまった。
子供ながらに理不尽な気がした憶えがある。
結局、二人の女の子の人気をその鈍くさい子と私の間で行ったり来たりしている感じだった。
何故そんな鈍くさい子がモテたのかは解らない。彼に母性本能をくすぐる何かがあったのかもしれないし、ただ単に二人の女の子のうちが近所で仲良くしてただけかも解らず、今となっては調べようもない。

ある日、「幼稚園にテレビのお兄さんがキターー!!」と友人達が興奮気味に話していた。
「おぉ!ついにうちの幼稚園にもピンポンパンが来たのか!!」と私も期待に胸をふくらませていた。
その当時の私の見ていた番組はなんていっても「ピンポンパン」だろう。
毎日「ピンポンパン」を見ながら、いつかは自分の番が回ってきてあの「ピンポンパン」に出られて、最後にあの木の根っこから好きなおもちゃをもらえるんだ。と信じて疑わず、その日を一日千秋の思いで待ちこがれていた。
それだけに、テレビのお兄さんが来る = 自分のピンポンパンへの出演出番が回ってきた。と考えていたのだろう。
ところが、幼稚園に来たソレは「ピンポンパン」のお兄さんではなかった。
友人達は知っている人らしく「XXXのお兄さんだ!!」とかなりヒート気味であるが、わたしは「ピンポンパン」以外はまったくその手の番組を見ていなかったため、みんなの興奮とは裏腹に、一人冷めていた。
どうせ呼ぶなら、「カータン」とか「新兵ちゃん」とか「お姉さん」とかはたまた仮面ライダー1号の「藤岡弘」とか、そのあたりの知っている人にしてくれればいいのにと園長を恨めしく思った記憶がある。

ちなみに、園長室にも忍び込んだことがある。
園内のたいがいの場所は見て歩いたのだが、園長室だけはいまだ謎であった。
園長が出入りするときにその隙間からチラッと中が見えることもあり、気になって仕方がなかった。
気になり出すともうその事だけで頭がいっぱいになり、お遊戯の時間を抜け出して、園長室に忍び込んだ。
ところが折り悪く園長が居たためすぐに見つかってしまった。
あとで幼稚園から親にも注意が行ったらしく、だいぶ怒られた。
しかし、肝心の園長室の中がどういう物だったかは記憶にないのであまり子供心をくすぐるような物がなかったのだと思う。
一度見学させてもらって好奇心が満たされればすぐに興味が無くなるものだったのに・・・。

同じ理由で帰りに買い物に連れて行ってもらう時に何か心の琴線に触れるようなものがあれば、いてもたってもいられないず、もうまっしぐらである。
そのため、しょっちゅう親元から離れて迷子になった。
迷子になると決まって近くにいる人の中から人相の優しそうなお姉さん(必ずお姉さん)にお願いして母親を捜してもらっていた。
探してもらうだけでなく、足が疲れたと言っておんぶもねだった。
優しいお姉さんなので、おぶってくれてその足で私の母親探しをしてくれた。
その背中から「そっちじゃない、たぶんこっちだとおもう」とかダメ出しを出していたのだから、いまらか思えばとんでもないガキだった。

そんなふざけた園児の私にもやがて天罰が下ることになった。
幼稚園では幼稚園の授業の他に放課後に英語教室をオプションで開いていた。
そこで、私は英会話を習いたい旨のことを親に話したが、父親の一存で、近くの剣道の道場に通わされることになった。
そこがまたとても礼儀作法に厳しいところで、私のようなふざけたガキには容赦なく平手が飛んできた。
周りが騒いでいると全員、その日は稽古付けてもらえず、1時間ずっと板の間で正座ということもあった。
最近で言えば「戸塚ヨットスクール」であろうか、そこは軍隊並みにかなり厳しいところだった。

もともと自分の希望する物ではなかったため、当初から消極的で結局それから10年くらい通わされたがちっとも強くならなかった。
ただ、身体だけは鍛えられたのでこれといった病気もせずに、現在に至るまで、入院した経験はない。
そういう意味では感謝している。
ただ、逆に普通の遊びをすることが無く、当時の流行の野球などの球技はまったく不得意になった。
なによりも、剣道はスタンドプレイなので、そのせいで今でもチームプレイが不得意になったように思う。

●デザインについて

デザインについては20代の最初に就職した企画会社で仕事をするうちにたたき込まれたように思う。
学校で学んだことはあまり役に立たなかったが、仕事をして実際にクライアントとのやり取りの中の方が色々と学ぶことが多かった。
その頃、夏目漱石の小説を読んで自分のデザインの信条のような物を得て、以来それを基本にしている。

久しぶりに当時に書いた手帳のメモを読んだのでそのまま書いておこうと思う。

デザインの本質とは
今まではデザインとは生み出す物と考えてきたが、ここにきてデザインとは掘り出す物と解ってきた。そもそもグラフィックにしても立体にしてもデザインという物はある取り決めがあり、その枠の中で最大限にそれに合う物(形・質・量・色など)を掘り出す作業こそデザイナーのなすべき事であり、それでこそ道理にあったデザインがなされると思う。
それは既に元からそこにあるべくしてある物で、それらを無視した物は所詮、我見の物のように思われる。
経験のないうちは、何でも自分の数少ない得意な土俵に持ち込もうとするがこれは間違いである。
案件ごとにある要素をクライアントとの打ち合わせや分析から、謙虚に見てゆきそこから掘り出すことが大事である。
そこには自分の我見が入る余地などはない。
ミケランジェロの曰く「私は大理石の中から像を見つけ出し、余分な部分を取り除いているだけだ」というものがこれである。
巨匠ですら素材に対し謙虚なまなざしを向け献身的な仕事をしているのにましてや我らの仕事をや。
また、夏目漱石の夢十夜という作品の中、第6夜に

運慶(うんけい)が護国寺(ごこくじ)の山門で仁王(におう)を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評(げばひょう)をやっていた。
山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜(なな)めに山門の甍(いらか)を隠して、遠い青空まで伸(の)びている。松の緑と朱塗(しゅぬり)の門が互いに照(うつ)り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障(めざわり)にならないように、斜(はす)に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出(つきだ)しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。
ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その中(うち)でも車夫が一番多い。辻待(つじまち)をして退屈だから立っているに相違ない。
「大きなもんだなあ」と云っている。
「人間を拵(こしら)えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも云っている。
そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫(ほ)るのかね。へえそうかね。私(わっし)ゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」と云った男がある。
「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊(やまとだけのみこと)よりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻を端折(はしょ)って、帽子を被(かぶ)らずにいた。よほど無教育な男と見える。
運慶は見物人の評判には委細頓着(とんじゃく)なく鑿(のみ)と槌(つち)を動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所に乗って、仁王の顔の辺(あたり)をしきりに彫(ほ)り抜(ぬ)いて行く。
運慶は頭に小さい烏帽子(えぼし)のようなものを乗せて、素袍(すおう)だか何だかわからない大きな袖(そで)を背中(せなか)で括(くく)っている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。仰向(あおむ)いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我(わ)れとあるのみと云う態度だ。天晴(あっぱ)れだ」と云って賞(ほ)め出した。
自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在(だいじざい)の妙境に達している」と云った。
運慶は今太い眉(まゆ)を一寸(いっすん)の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪(たて)に返すや否や斜(は)すに、上から槌を打(う)ち下(おろ)した。堅い木を一(ひ)と刻(きざ)みに削(けず)って、厚い木屑(きくず)が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開(ぴら)いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀(とう)の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾(さしはさ)んでおらんように見えた。
「よくああ無造作(むぞうさ)に鑿を使って、思うような眉(まみえ)や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言(ひとりごと)のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫(ほ)ってみたくなったから見物をやめてさっそく家(うち)へ帰った。
道具箱から鑿(のみ)と金槌(かなづち)を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風(あらし)で倒れた樫(かし)を、薪(まき)にするつもりで、木挽(こびき)に挽(ひ)かせた手頃な奴(やつ)が、たくさん積んであった。
自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫(ほ)り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片(かた)っ端(ぱし)から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵(かく)しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った。それで運慶が今日(きょう)まで生きている理由もほぼ解った。

とある通り、素材の中から彫りすぎず、掘り残さず、綺麗に「物そのもの」を現すことこそ我々の使命なのではないかと思う。

改めて見直してみると当時からあまり進歩していないなぁと反省するこの頃である。