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2013年09月10日

●たいがいのことは紙と鉛筆で事足りる。

 紛失したシャープペンと同じ物を購入した。
 同じ型の物を買うのはこれで4度目か、1つめは人にあげた。2つめは紛失した。3つめは置き引きにあったバックの中から物色されて盗まれた。

 シャープペンで書いたり消したりできる気軽さには、いまさらながら感心する。
 万年筆でスラスラ書いてゆく書き心地は格別だが、書き損じを塗りつぶしたり、純粋な思考から横道に逸れて落書きなど をした場合には紙面の趣旨がボヤけてしまう。本筋でない脇道の思考も”とりあえず”紙面に吐き出して、記載し目で見て確認し、また本筋の思考に戻るというプロセスが多い自分にとっては、無駄と判明した時点で消せるという鉛筆の特性が合っている気がする。

 これは文書だけでなく、ちょっとしたスケッチでラインを引いて、そのラインが気に入らない場合により理想に近いラインを引き直す。仮に引いたラインは補助線であり、理想に近いラインを引くための過程である。理想に近いラインを引いた後は補助線は消したい。

 こういう風に、文章を書くにしても、頭の中にあるイメージを紙に移すにしても鉛筆さえあればたいがいは事足りる。

 さらに言ってしまえば、芯を容易に尖らすことができて、削りカスで他の持ち物や手を汚す心配さえなければ、シャープペンでなくても鉛筆の方が手に馴染む。

 最近、気に入っ鉛筆削りをた無印良品でみつけた。
 削りカスをためて、蓋が付いているので移動時でもカスがこぼれず、しかもコンパクトでこれを使っている。
 書くうちに芯が丸くなり、削って芯を尖らすという作業は、再度思考や感性を尖らすのに通じ、また鉛筆を削るときの微かな木の香りも気持ちを落ち着かせる効果もあり、これが良いリズムになっている。

 鉛筆は学生時代に鉛筆デッサンで使っていたHi-Uniとかステッドラーなどが結構な本数余っている。
 これらを持ち歩きに収められる具合の良いホルダーもみつけた。
 ステッドラーの銘で、日本製のアルミである。
 値段は少し張るが、日本の精密な金属加工でたいへん質がよい。
 安物のホルダーでは、鉛筆をホールドにかなり力を入れて締め付けないと、鉛筆削りの時に回転してしまう。
 これはホールドのねじ切りの荒さが原因なのだが、この点ステッドラーのものは細かいねじ切りで力を入れずとも確実のホールドしてくれる。
 またペンの後ろに小さな消しゴムが付いており、これが軸の回転で繰り出される仕組み。適度に繰り出して使えばちょっとした修正に重宝するし、移動時にしまい込めば出し過ぎて折れる心配がない。

 基本に戻って、この安価で手軽で自由度の大きい道具を見直してみようと思う。

2013年09月09日

●撮った後

 コンパクトなデジタルカメラの中では比較的写りの良いGR Dagitalを持っているが、最近はあまりシャッターを切る機会が少ない。
 いくつか理由が考えられるが、まずコンパクトとはいえ、荷物にすればそれなりの重さでかさばるし、ケースから出して、電源を入れて、構えて、撮るという一連の記録を取るという行為が、行事そのものを愉しむ流れでいささか興ざめてしまうからだと思う。
 これがiPhoneの内蔵カメラで撮る場合はその行為自体それほど興ざめはしない。
 これは携帯ならいつでも手放さず、何らかの操作をするそれに似た動作で撮影ができるという、日常行為の延長線上にあるかないか、その違いだけだと思う。

 加えて、デジタルカメラで不便に思うのは「撮った後」の手続きである。
 実は些細なようだが、まずはデータを移すPCが必要だし、現像ソフトで調整して(これ自体はやり出すと楽しい作業)選択してしかるべきサービスにアップする。
 当然ながら撮った後の加工も公開もデジタルカメラ内ではできない。

 これがiPhoneならば加工もアップも撮った後の空いた時間にすぐにできる。
 画質の点など、うるさいことを言わなければ、十分に用は足りるのである。

 現在、一眼レフを除くコンパクトデジカメの売れ行きが思わしくないと聞く。
 その理由にはもしかしたら、この撮った後の手続きの面倒くささにあるのではないかと思うのである。

 誰しもがより質の高い記録を残したい、綺麗な写真は撮りたいと願うだろう。携帯の内蔵カメラの性能向上でほとんどの層が満足いくレベルにまでは達しているのだろう。あとは運用面でコンテンツをどういうサービスに自然に結びつけられるかが鍵になると思う。

 

 

●ルーブル美術館展

 先日、上野にある東京都美術館で開催中の「ルーブル美術館展」を家内と見に行った。
 綺麗な配色のポスターは気になっていたが、正直、大理石の女神像が目玉であまり見るような物がないのではないかと疑って、乗り気ではなかった。
 第一大理石の女神像自体はそれほど興味をそそられる対象ではなかったからである。

 しかし、ちょうど近所で開催中だし、9月6日から開催の芸祭を見に行くついでと思って足を伸ばしてみた。
 土曜日で、会期も終わりになっているにもかかわらず、人が多かった。

 今回は地中海周辺の古代からのコレクションに的を絞って展示していると、現地について初めて知った。
 紀元前、ローマ時代の壺やら装身具などは見ているだけで楽しい。
 特に古代の物はそこに描かれている迷いのない線など感じ入る事が多い。

 7つの展示エリアに分かれていて古代から順々に遡っていく志向だ。
 昔、石膏デッサンでモチーフにしていたような大理石の像がいくつも展示されていて、ついついうっとり見入ってしまった。
  もちろん目玉であるビーナス像も見たが、それ以外の像もそれぞれ興味深く拝見できた。

 それで展示エリアの1〜3あたりは心地よく見られたがエリア4の十字軍あたりになると、どうもつまらない。古代の自由さがなくなって凝り固まった思想のような物が感じられてどうもよろしくない。
 それを過ぎてルネッサンスあたりにくると、今度は絵画が楽しくて、紀行記録の素描と淡彩が面白かった。

 オスマントルコ時代の大粒のダイヤモンドをあしらった装飾品など、豪華な品も目を引いた。
 ただし、古代の物と比べると高価な宝飾品だけど趣味はよろしくない。

 時間の関係上でビデオ放映はスルー、後半は流しで見てきたが展示物が多いのでそれでもたっぷり2時間はかかった。
 久しぶりの展覧会鑑賞に満足した。
 これを機にまた美術館巡りが再発しそうな予感。
 さっそくiPhoneの有料アプリ「TokyoArtBEAT」と「ミューぽん」をインストールした。

2013年09月04日

●久しぶりのメガネ新調

 先日、約7年間使用してきたメガネフレームが金属疲労でポッキリ折れてしまった。
 チタン製のGUCCIの物でデザインが気に入って少しサイズが小さかったが気にせず使っていた。

 幅の狭いフレームをやや広げる形で使用していたので、ヒンジの付け根がポッキリ折れた。
 でもさすがはブランド品でこれほどの細さの接続部をよくぞ7年も繋げていたと感心した。
 ただ、さらに長い20年使用しているローデンのメガネフレームの方は未だにガタがない。
 この安心感から新調するならばまたローデンのフレームと思って探した。

 ローデンストック自体は高い品質と頑固で変わらないデザインが特徴なので、今から見るといささかデザインが古くさい。
 それでもましな物を探して、現代風のラインの物を選んだが、そのシリーズは廉価版で望む頑強さにいささか不安があり、そのくせ値段が一般のフレームと比べて高いこともあって候補から外すことになった。

 結局、付けた感触、デザイン等で選んだ物は日本製のシャルマンのラインアートというシリーズのフレームレスだった。

 フレームレスにした理由は顔のサイズに合わせやすいからである。
 不案内な素人なのでシャルマンというメーカー自体を知らなかったが、日本の代表的なメガネフレームメーカーだそうだ。

 しかも今回、本当にメガネに合う金属素材を独自に開発して、しなやかで丈夫なチタン素材を使った新しいタイプの物なのでこれからの長い間の使用感は未だ未知数である。
 ただ、このフロントの鏡面シルバーと紺のチタンライン、サファイヤのような深みのある青い樹脂テンプルは見るだけでワクワクさせてくれる。

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2013年09月02日

●何かを学びに行くということは、そのための純粋な時間を確保するということ

 だいたいにおいて、お金を支払って何かを学びに行くこと自体には懐疑的であった。
  自分自身、自動車免許など ”いたしかたがないケース” を除いてお金を払って何かを学びに行くことは、ほぼ皆無である。
  信条として「情報が溢れている現在は学ぶ気さえあれば独学で何とかなる」と思っているし、関連本を購入して、疑問点はネットで調べべるなどして独学でまかなってきた。
 なのでお金を使って何かとセミナーにせっせと通う人をどちらかと言えば懐疑的な目で見ていた。

 ところが 、この歳になり家庭を持つようになって少し考え方が変わった。

 お金を出して得る物は安直なノウハウや楽な学習環境だけでなく、純粋にそれに向き合える時間の確保こそその主たる目的ではないか?そう思うようになった。

 家庭にいると何かと邪魔が入る。
 それは致し方がないことだ、広い住居ならまだしも狭い我が家では在宅の時には常に相手は目に入る。
 また、仕事やその他の時間を割いて、ようやく空けたまとまった時間も純粋に使うことはままならない現状がある。

 このような時にこそ、決まった時間に決まったことに打ち込める何とか教室は有意義な物であると考える最近である。