
先日のエントリーでかいた、「ゼンマイ仕掛けのコンピュータ」の100ドルPCのつづき。
現在、日本でも「小学校で教育のために使われている」コンピューターは、総数で73万4083台といわれる。
これを小学校の生徒一人あたりに直すと、9.6人に1台でしかない。
(文部科学省発表「学校における教育の情報化の実態等に関する調査(中間調査)結果」より)
小学生にPCは必要ないのではなどという考え方をする人もいるらしいが、以前から私は環境によって子供の可能性が広がることを訴え続けてきたが、その大人がPCが使えず、よって必要としないからといって必ずしもその価値観を子供に押しつけるのは大きな誤りであると思う。
すでにPCは文房具レベルの認識であり、生活していく上で必要不可欠な物になりつつある。
百歩譲って無くても生活できるとしよう。
でも、PCがあることによって、子供の可能性が大きく広がるとしたらこれは利用しない方がおかしいと思う。
先進国と言われる日本ですらこの状況なのだが、これが世界ともなると自体はもっと深刻だ。
正直に言って世界規模で考えてゆくと私の理解も想像も遙かに超えている。
そこには様々な諸問題があるのだろう。
ただ、ネットの普及によって各国の一般の人(政府の人ではない)が現実を少しでも知って、お互いの理解を深めて何らかの歩み寄りの手助けになればと思う。
無知ゆえに自分以外の苦しい環境を知らずに派手に消費生活をのうのうと送っていられるのも現実だし、また、無知ゆえに犯罪に手を染めてしまうのも現実だと思うからだ。
以前のエントリにかいたMIT Media Labの100ドルPCについては、一昨日、CNETに「100ドルPCとライバルたち--軍配はどれに上がる? 」との記事が載っていた。
やはり問題はコストと通信機能の実行能力にあるようだ。
ただし、この記事にはNicholas Negroponteの「100ドルPC」に対する短所として
PCに搭載されるプロセッサは動作速度が500MHzで、またストレージも500Mバイトのフラッシュメモリしかない(ハードディスクは非搭載)。さらに、広く普及しているアプリケーションも付かない。
とあるが、これは必ずしも問題にならないのではないかと思う。
1989年当時、私の使ってた「Macintosh Plus 」は チップがMC68000プロセッサのわずか8Mhzだったし、HDDの容量も40Mb(ギガバイトではない)画面もモノクロの512×342pixelだった。
メモリも最大に積んでも4Mb(しつこいようだが4ギガではない) こんな非力なマシンでも十分にインスパイアーされて、様々なこと学ばせてくれた。
このマシンでキーボードのブラインドタッチも習得したし、ワープロはもちろん、Excelのスプレッドシートもこれで学習した。4thDimensionでリレーショナルデーターベースさえも作った。ドローイングソフトで複雑な図形も作成したし、PageMakerで組み版の印刷物も制作した。テトリスやSimCityも遊んだ。
もちろん、Macの初期のソフトなんて大した数はなかった。
それでも、全てを入手できるわけもなく、手に入れた数少ない物を、骨をしゃぶり尽くすようにいじり倒した。
要は「何も無い」という状態から「コンピュータがある」という状態になったその差は歴然としていた。
これは"The Wall Street Jounal"1980.8.18 のインタビュー記事なのだが、ジョブズが「人間の頭脳を拡張する21世紀の知的自転車」と表現して、PCとは何かという質問に対して答えた以下のやり取りがある。
Q.) パーソナルコンピュータとは何でしょうか。
A.) それについては、自転車とコンドルとのアナロジーで答えたい。数年前に。僕は「サイエンティフィック・アメリカン」と思いますが、人間を含めた地上のさまざまな動物の種の、運動の効率に関する研究を読みました。その研究はA地点からB地点へ最小限のエネルギーを用いて移動する時に、どの種が一番効率が良いか、結論を出したのです。結果はコンドルが最高だった。人間は下から数えて3分の1のところにいて、あまり印象に残っていません。
しかし、人間が自転車を利用した場合を、ある人が考察しました。その結果、人間はコンドルの倍の効率を見せました。つまり、自転車を発明した時、人間は本来持っている歩くという肉体的な機能を拡大する道具を作り出したといえるのです。
それゆえ、僕はパーソナルコンピュータと自転車とを比較したいのです。なぜなら、それは、人間が生れながら持つ精神的なもの、つまり知性の一部を拡大する道具だからです。個人のレベルでの生産性を高めるための特別な'関係が、人間とコンピュータの関わりの中で生まれるのです。
ほとんどの人々は、まだ、パーソナルコンピュータの存在すら認識していません。この業界の挑戦は人々にパーソナルコンピュータを学んでもらう手助けをするだけでなく、パーソナルコンピュータを使いやすくして、ここ10年の間に自転車と同じくらいに人間の精神の拡張であるパーソナルコンピュータを社会に普及させようとするものです。
もう一度この精神に戻って、先進国の需要で物を推し量るのではなくて、まず何もないという現実から広く多くの人にPCを普及させること目標とした方がよいのではないかと思うのである。
先進国の様々な思惑で、足並みが揃わずに実現が遅れて、子供のせっかくの可能性に歯止めがかかるとしたら、そちらの方が問題だと思う。
欲を言えば果てしのないものだが、今、自分にとって本当に必要なスペックとは?と考えるときに必ずし高スペックでなくとも良いと気付かされる。
一方、せっかく教育のために配ってもそれが生かされる前に食べるために転売される恐れもある。
あの100ドルノートPCが2006年後半に登場へ - CNET Japan
もう1つの不安は、毎日の生活にも不自由する家庭の児童に無償で渡したラップトップが、その後どうなるかという点だ。たとえば、ナイジェリア人の平均年収は1000ドルであるため、金に困った家庭が付与されたノートPCを処分するといった懸念がある。
Negroponteは「とにかく絶対に流通市場を作らせないことだ」とし、そのための解決策の1つとして、「数日間ネットワークに接続しないとマシンが機能しなくなる」ような仕組みが考えられると説明した。
この問題についてはこのCMなどを見ると切実な現実が伝わってくる。
それくらい地域によっては貧困問題の方が優先される現実がある。
よって教育という高い理想を掲げながらもこの問題は避けて通れない。
結局は両方から進めていかなければいけないのだろう。